御許山は、宇佐神宮の東南約6㎞に位置する。馬城嶺(マキみね)とも
廚岑(クリヤみね)ともよばれるが、御許山(神宮では「大元山」と書く)とは
八幡宇佐宮の元宮という意味を含み、宗教的意味をはなれたら馬城嶺と
呼ぶべきかもしれない、山頂に3個の立石いわゆる磐座( イワクラ )があり
三女神は、この立石を依代(ヨリシロ)として降臨したという、今、イワクラの
ある頂上部は禁足地となっていて実見できない、歴史資料によれば、
中央の石が最も大きく高さ一丈五尺(約4.5m)の烏帽子型、右の石は
これに次ぐ大きさで形はほぼ同じ、左の石は高さ四尺(約1.2m)余りと
小さく、人の手が加えられた痕跡があるという!、わが国の古代信仰は、
里近くの秀麗な山をカミの山・神奈備山として仰ぎ見、山頂にある
巨石( イワクラ )などをカミの降りくる聖地としてカミ祀りをおこなったことに
始まるという。
神奈備信仰・磐座信仰と呼ばれるもので、宇佐平野にあっては、
東の御許山と西の稲積山がこれに当たる、御許山に降臨した三女神は
所謂“山の神”であり、それは又、山麓での農耕に必要な水を掌る
“水の神”でもあり、そこから“田の神”としても信仰されてきた。民俗学では、
山の神は春先に麓に降りて稲作を助け、秋の収穫を
見届けて山に帰るとされてきた!
御許山は、宇佐神宮境内を流れて周防灘に至る寄藻川の
水源でもある、一方、平安初期に成った
宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起( 承和11年-844、以下「 承和縁起 」 )には
大御神は、是品太天皇( ホムタノスメラミコト/応神天皇 )の御霊( ミタ マ)也。
欽明天皇の御世( 539--71 )、豊前国宇佐郡馬城嶺に始めて顕れます とあり、
鎌倉時代の八幡宇佐宮御託宣集( 正和2年-1313、以下「託宣集」という )には、
「 一伝に曰く、八幡大菩薩、神明の時、三柱石と発す 」とある。これらは、
八幡神は御許山山頂ののイワクラに始めて顕現したという伝承は
誠である事が分かる!
また託宣集によれば、「 宝亀:8年( 777年 )05月 08日、八幡神は
『 翌9日辰刻に沙門となり、三帰五戒を浮くべし、今より以後は殺生を
禁断し生を放つべし、但し国家の為、巨害あるの徒出で来たらむ時は、
この限りにあらず 』と託宣し、僧・法蓮を戒師として出家受戒した、
その場所は、馬城嶺の磐座から南に十四・五町下った
正覚岩( 未見 )の辺りで、そこには八幡神の霊鬘・玉冠や
剃髪に使った剃刀を収めた箱が石となって残っている 」という、
仏教と習合した八幡神は“八幡大菩薩”と呼ばれるが、
その出家受戒の地が御許山だという伝承である!、
なお、このとき授戒師となって八幡神を出家させた僧・法蓮とは
大宝: 3年( 703年 )および養老: 5年( 721年 )に朝廷から
褒賞を受けた( 続日本紀 )という実在の人物で、
宇佐氏の出身で、彦山あるいは 六郷満山を
中心に活躍したといわれる修験者的人物で、八幡神関係の
伝承のうち仏教に関わるものには、ほとんど係わっている。
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